優しい雨



十一番隊の詰所には平素から人が少ない。 その日もやちるが外から帰ってきたときには詰所には一人しかいなかった。 だがその人物がであることに彼女は満面の笑みを浮かべる。常ならば三席の斑目一角が腰を据えている椅子に腰かけて、 雑誌を捲る彼にととと、と軽い足音を立てて近付く。
ちゃん何してるの?」
上目遣いに問えば、は桔梗色の双眸を本からずらすことなくゆったりと答えた。
「次に作るお菓子のレシピ見てんの」
「一緒に見ていい?」
「いいよ」
了承が得られると―最もやちるは過去にに『お願い』をして、 それは大きかったり小さかったり様々だが叶わなかったことはない―椅子に座るの膝によじ登り、 足の間におさまる。の広げるお菓子の写真をゆっくりと目で追いながら、時々「あ、これ食べたい」 と指をさす。するとやっぱり頭の上から「いいよ」と返事が返ってきて、やちるは嬉しさに顔をほころばせた。 ゆっくりとページが彼の長い指先で捲られる。やちるは知っている。 が自分に合わせて読むスピードを遅くしてくれているということを。 彼は何も言わないが、知っているのだ。随分前にそのことに気付いた時、 どうしようもなく嬉しくなって布団の上で百メートルぐらい泳いだ。 彼は誰にでも優しいけれど、特に自分に対して甘くなるのを知っている。だから思いきり、甘える。 そしてもめいっぱい甘やかしてくれる。剣八や十一番隊のみんなや、他の護廷の人とは違う感覚を、やちるはに感じていた。
ちゃんは雨の日好き?」
唐突に訊けば、見上げた彼の丁寧な造作の顔が驚いていた。別にやちるにとってはいきなり思いついたことではない。 外は朝から雨が降っている。大きな音を立てることもなく、雷を伴うこともなく。ただやさしく乾いた大地を潤している。
「そうだなぁ」
やちるの問いかけに答えるべく、は考えながらゆっくりと目を閉じる。綺麗な色の瞳が見えなくなってしまったのが残念で、 質問なんてしなけりゃ良かったと少し後悔した。やちるを抱えたまま椅子に凭れて、ゆっくりと呼吸をする。 肺一杯に吸い込んだ空気にしっとりとした雨の雰囲気を感じた。膝の上の小さなぬくもりは、 いつもなら始終動き回っているというのに今日は大人しくじっとしている。少しだけ彼女を支える手をゆるめれば、 すぐにぎゅっとの死覇装をつかんできた。微笑ましくなって口元をゆるめれば「なんで笑ってるの」 と子供特有の高い声で咎められる。「ごめんごめん」と軽く謝って、笑い顔のまま桔梗色の双眸を押し開ければ、 ぷうと頬を膨らませたやちるの顔が真っ先に目に入る。堪えきれずに噴き出せば、彼女の頬はますます膨らみ、 風船のようになってしまった。
「あっはは、もうやちるは可愛いなぁ」
桃色の髪を撫でてやれば、膨らんだ頬は音を立ててしぼんでいった。そんな彼女の反応はの心をくすぐる。
「雨の日は、こういう日は好きだよ。今日みたいに非番なら最高」
例えそれが自分の部屋で寝ているところをいきなり剣八に拉致られて十一番隊詰所のお留守番をさせられようとも。 続けて言った言葉にやちるは顔を明るく輝かせた。
「あたしも雨の日好きだよ。ちゃんと一緒ならもっと好き!」
言って目の前の首に勢いよく抱きつく。安いつくりの椅子がぎしりと悲鳴を上げたけれど、 が「あーもう!ほんっとうにやちるは可愛いな!!」とやちるをぎゅっと抱き返したので気にならない。 二人してきゃーきゃー言いながらじゃれあって、雨降りの午後は優しい時を刻んでいった。


後日、十一番隊詰所に頭にタオルを巻き、手に鍬を持った十三番隊八席が現れ、開口一番こう言った。
「十一番隊ー今から隊舎の庭に苺植えるぞ外に出ろ〜」
呆気に取られる一同をよそに、は手近に居た隊員に苺の苗を手渡している。受け取ってしまった隊員は、 押し返すことなど相手がでは出来るはずもなく、頬に傷のあるいかつい顔を情けないほどにゆがめて一角や恋次を振り返った。 そこでようやく我に返った一角が「何でそんなことすんだよ」と訊けば、真顔で、
「やちるが喜ぶ。以上」
と返される始末。言い出したら聞かない、妙に頑固なところがあるのことだ。しかも自分の隊の副隊長絡み。 彼はやちるを殊のほか可愛がっているから、喜ばせるためなら何でもする節がある。 ため息つきながらどうやって逃れようかと一角が考え始めたとき、彼の隣で優雅に爪の手入れをしていた弓親がすらりと立ち上がる。
「僕は厭だよ。畑仕事なんてこの美しい僕には似合わない」
高らかに言い切った彼を見ながら、こんな風に言えれば苦労しねーのになーとか一角はぼんやり思った。 しかしそれもつかの間。が弓親の宣言にふっとその口角を上げた。
「何を言うんだ弓親。土いじりほど崇高な作業は世の中に類を見ないんだぞ。いいか、想像しろよ? 荒れ放題の十一番隊隊舎の庭。そこをきちんと耕して苺の苗を植える。土の上にちょこんとおさまる小さな緑色の葉。 それを毎日毎日愛情持って育てて迎える春には瑞々しい赤い果実が実る。それを収穫して味わう大地の恵み…… どうだ素晴らしいじゃないか。それに弓親、何かを育てるという行為は大きな愛が必要だ。それこそ美しい、そうは思わないか?」
鍬を持っていない方の手を胸にあて、滔々と語りだすに詰所内はしんと静まり返る。 芝居がかった調子の物言いに呆れて息をついた一角だが、隣に立つ弓親の肩が小刻みに震えていることに気付いた。
「おいどうし……」
「美しいね!僕はやるよ!」
「うぉい!」
心配して声をかけた一角だったが、すぐにそれはツッコミの一声に変じた。 の話の何処に感動したのか感化されたのか。弓親はいそいそと死覇装の袖をたすき掛けにすると、 懐から取り出した手拭で頭を覆った。軽い足取りで入り口に立つの元へ行くと、 その側で未だに苺の苗を持ったままの隊員から奪うように苗を受け取り、鼻歌を歌いながら外へ出て行ってしまった。 後に残された平隊員達は自然と一角、恋次の元へ視線を集める。
「あの、さんスミマセン。俺ちょっと書類溜めてるんで……」
おずおずと右手を上げて言い出した恋次に一角は心中で拍手を送る。そうかその手があったか、 俺もそうなんだと言い掛けようと口を開くと同時に、
「恋次。苺が収穫できたあかつきには俺お手製の苺大福を作ってやる」
「やりましょう!!」
「馬鹿だ!馬鹿しかいねぇのかこの隊は!?」
の言葉にいっそ清々しいほど態度を翻した赤毛の後輩に一角はつっこまずにはいられない。 弓親に続いて恋次までもが畑を開墾するために出て行ってしまった今、 下位の席官も平隊員達もぞろぞろと詰所を後にする。そうして詰所には一角とのみが取り残された。 桔梗色の双眸がゆっくりと自分の上を這うのを感じる。だから厭なのだ。には逆らえない。
「さて、どうする?一角」
こんな風に名を呼ばれたら。
「ちっくしょーぉっ!!!!」
堪らずに叫ぶと、走って立ち止まったままのから鍬を奪う。そのまま駆け出していく一角を見送りながらは綺麗に微笑んだ。
「任務完了。どう?お姫様」
「ありがとっちゃん!」
柱の影にいた剣八と、その背にひっついているやちるを振り返れば、桃色の方からは満面の笑顔が返ってきた。 長身の強面の男は渋い顔をしているが。

「いやん剣ちゃん怒んないで。埋め合わせはきっちりするよ。三ヵ月分の書類整理でどうよ?」
「……仕方ねーな」
「ねぇねぇ!あたし達も行こうよっ」
こうして雨上がりの翌日、十一番隊は総出で隊舎の庭を苺畑に変えるという何ともむず痒い作業をする羽目となったのだった。